阿賀の近代産業がたどった光と影について

 草倉銅山の坑道跡(写真撮影:山口冬人氏)

かつて阿賀野川流域では、大河がもたらす恵みを享受する暮らしが営まれ、重要な交通路だった阿賀野川では舟運が盛んでした。

 

ところが、明治以降になると阿賀野川上流域では、草倉銅山や鹿瀬ダム、昭和電工㈱鹿瀬工場といった、日本の近代化を支えた様々な産業が盛衰します。これらの産業は、地元に繁栄をもたらす一方で、新潟水俣病といった公害も引き起こすなど、近代日本の縮図とでも言うべき光と影の変遷をたどってきました。

 

このページでは、この「阿賀の近代産業がたどった光と影」について、もう少し詳しく解説します。


近代以前

阿賀野川の舟運

 

 阿賀野川では江戸時代に入ると、大河・阿賀野川を利用した舟運が盛んになります。

 

 特に、津川の河港から新潟みなとまでは、「津川ふなどう」が統制する巨大な舟運ルート(津川河港 ー 阿賀野川 ー 小阿賀野川 ー 信濃川 ー 新潟湊)で、日に何艘もの帆掛け舟が往来していました。

 ▲阿賀野川を遡上する帆掛け舟(明治後期〜大正前期か/田辺修一郎氏所蔵)


イザベラ・バードも訪れた!「津川の河港」

 江戸時代、会津のお米(※大阪に輸送される かいまい など)や しんたん などは、会津街道を陸路で津川まで運ばれ、この津川の河港から帆掛け舟に積み込まれて、阿賀野川をくだって新潟湊まで運ばれていました。また、帰りの舟には塩や海産物などが積まれ、津川で荷揚げされた後、会津方面などに陸送されていました。このように、当時の津川は水陸交通の要衝として栄え、人々や物資が行き交うなど大変活気にあふれていました。
 イギリスの女性旅行家であるイザベラ・バードも、明治11年に津川を訪れています。彼女は河港から帆掛け舟に乗り込み、阿賀野川をくだって新潟を目指すさなか、あまりにも見事な阿賀野川の光景を目の前にして、「ライン川より美しい!」と賛嘆しました。
▲明治に新造された河港「新河戸」
(明治後期か/田辺修一郎氏所蔵)

明治時代

草倉銅山の開発

 

 すでに江戸期に発見されていた草倉銅山は、明治8年に津川の商人・平田治八郎氏から経営権を買い取った古河いち氏によって、本格的に開発されました。なお、古河氏は2年後の明治10年に、あの有名な栃木県の足尾銅山の権利も買い取っています。

 

 “無類の宝山”とも呼ばれた草倉銅山は、すぐに多くの銅を産出するようになり、明治16年には国内第2位の産銅量を誇るまでになりました。

 ▲明治15年、角神に建設された最新設備の製錬所(明治期/小野崎敏氏所蔵)


古河財閥のいしずえを築いた鉱山王・古河市兵衛氏

 京都出身の古河市兵衛氏は、政商・小野組の番頭を経て、鉱山業へと進出します。そして、草倉銅山が稼ぎ出した利益を、当初は不振をきわめていた足尾銅山の開発に注ぎ込み、とうとう明治17年に大鉱脈を掘り当てました。
 この発見を契機に、足尾は産銅量を飛躍的に伸ばして東洋一の銅山へと成長し、大成功をおさめた市兵衛氏は「鉱山王」などと呼ばれるようになります。
 彼の死後、「古河鉱業会社」が設立され個人経営から会社組織へと変更されたほか、関連会社も次々と設立され、巨大な企業群である古河財閥を形成するようになりました。
▲古河市兵衛氏
(明治期/「【小野崎一徳写真帖】足尾銅山」〔小野崎敏編著・新樹社〕引用)
(※グラフや利益計算は、齋藤昭著「草倉銅⼭鉱夫の労働態様」を参照して作成)

草倉銅山の初期の産銅量について

 草倉銅山は権利を買い取ってわずか2〜3年後から、現在の貨幣価値に換算すると8,000万円近い利益を毎年計上しています。足尾よりも産銅量が多く、かつ低コストに利益を見込めた優秀な銅山だったことが、グラフから分かます。
 さらに、明治16年には国内第2位の産銅量を誇って、第1位の別子銅山に肉迫しつつ、第3位の足尾銅山にはかなり差をつけています。
 なお、足尾銅山は明治17年に大鉱脈を掘り当てたため、草倉の産銅量を一気に上回りました。

製錬所と河港

 

 当初は採掘した鉱石を本山で製錬していましたが、すぐに産銅量が増大して燃料の木々も伐採してしまったため、本山ふもとの角神という地域に、最新設備の製錬所を明治15年に建設して、そこで粗銅を生産しました。

 

 この製錬所のすぐわきを流れる阿賀野川には草倉銅山の河港があって、製錬所で生産した粗銅をこの河港から帆掛け舟に積み込み、阿賀野川をくだって出荷していました。

▲製錬した粗銅を出荷した草倉銅山の河港。奥には製錬所の煙が見える。

(明治期/柏崎市立図書館所蔵小竹コレクション)


 古河は16艘もの帆掛け舟を所有しており、その白い帆には古河の社章である「ヤマイチ印」のロゴマークが描かれていました。古河の帆掛け舟が阿賀野川を往来する光景は、それはそれは壮観だったそうです。

 

製錬(せいれん)とは

 鉱石の中から「燃やす(=燃焼)」「溶かす(=溶解・熔解)」「電気を流す(=電気分解)」などの方法を用いて不純物を取り除き、純粋な物質を取り出す工程のこと。草倉で採掘された銅鉱石は「黄銅鉱」で、これには不純物として「硫黄」や「鉄」が多く含まれるため、これらを角神の製錬所では「燃焼」や「溶解」によって除去していました。
燃焼 … 鉱石を燃焼して不純物を酸化させ、煙にして取り除く工程で、「焼鉱」「焙焼」と言う。黄銅鉱の場合、燃焼によって硫黄が酸化されて、「亜硫酸ガス(二酸化硫黄)」の黒い煙となり除去される。この煙が多いと山中の木々が枯れるなど、煙害の原因になった。

溶解 … 鉱石を高温で溶かして液体状にすることで、比重の違いから、軽い金属が上に浮かび、重い金属は下に沈む。黄銅鉱の場合、鉄の方が軽くて上に浮かんだので、沈んだ粗銅を下の方から取り出した。不純物の鉄はカラミと呼ばれ、レンガなどに再利用された。
▲(上)水套(=水冷)式溶鉱炉/(下)溶けた粗銅を取り出して、鋳型に流し込んでいる様子(明治期/新潟県立文書館提供/㈱たかだ所蔵)

 
▲草倉銅山の通洞坑入口。
他の重要な坑道とつながっていた。
(明治期/新潟県立文書館提供/㈱たかだ所蔵)
▲実際に草倉で採掘された「黄銅鉱」の銅鉱石。鉄のほか、硫黄を多く含有していて、所々金色を帯びている。(古山弓氏所有)

銅鉱石の採掘について

 草倉には草倉樋、船内沢樋、滑滝沢樋、大川前樋などの鉱脈に沿って坑道が伸びており、通洞坑はそうした重要な坑道とつながっていました。
 明治10年代の採掘現場では、まだのみとハンマーを使って採掘されていたようです(※足尾には明治17年ころ削岩機が導入)。採掘した採石量と銅鉱石の品位(銅を何%含有しているか)によって、坑夫たちの賃金が計算されていました。

 

選鉱(せんこう)について

 採掘された銅鉱石は坑外の選鉱場に搬入され、砕石後に「選鉱」という重要な工程に入ります。これは銅を多く含む精鉱を人や機械が選び取る工程で、ここで選ばれた鉱石が次の製錬の工程に送られました。草倉では通洞坑のすぐ外に選鉱施設がありましたが、阿賀野川沿いにも大川前選鉱場が建設されました。
▲阿賀野川沿いの不動滝近くにあった大川前選鉱場。(「写真集ふるさとの百年 五泉・中蒲原・東蒲原」〔新潟日報事業社〕引用)
▲大川前選鉱場内での女性たちによる手作業の選鉱風景。この後、機械化されていった。(明治期/長谷川国一氏所蔵)

繁栄と衰退

 

 草倉銅山は本山とふもとの角神本局に分かれ、最盛期には両地域を合わせて、家族も含めると6,000名もの人々が暮らしていたと、草倉銅山の事務員が手記に記しています。当時の草倉本山には住宅だけでなく、病院や派出所、商店などもあって、市場も開かれるなど大変にぎやかで活気にあふれていました。

 さらに、郡内にまだ電話のない時代に本山含め十数か所に電話機があって、牛乳を飲む習慣もあったなど、当時の先進文化も取り入れられていました。

▲草倉本山の様子。山腹には建物が建ち並び、人馬の姿も見える。

(明治期/小野崎敏氏所蔵)


 しかし、明治後期に入ると鉱床が枯渇して、草倉銅山の産銅量はみるみるうちに減少していきます。草倉の鉱夫とその家族は少しずつ足尾銅山へと移っていき、大正3年にとうとう休山してしまいました。

 
▲草倉銅山の大山神社跡。現在は灯籠と手水石、神社名の碑が残るのみ。(山口冬人氏撮影)
▲盆踊りの様子(明治期/新潟県立文書館提供/㈱たかだ所蔵)

にぎやかだった山の暮らし

 鉱山神社は「山神社」と言われ、たいていの鉱山にあり人々の心の拠り所でした。草倉の場合は本山と角神の2箇所にあり、毎年5月15・16日には「やまのかみさまの祭り」が盛大に開催され、長岡の大歌舞伎・金六一座の大芝居も上演されました。
 また、お盆の15・16日の夜は踊りが盛んで、独特の“金山甚句”が歌われました。

 

坑夫たちによる「とも同盟」

 坑夫たちはけいはいや落盤事故などによって、その大半が30〜40代で亡くなるほど労働環境が劣悪で、「太く短く生きる」「かかあ一人に亭主三人」などとも言われていました。

 そのため、坑夫の間では親分子分の契りを結びお互いを助け合う「友子同盟」が発展します。親分子分は固い絆で結ばれ、どちらか先立った方のお墓を残された者が建立しました。

▲坑内に漂う粉塵を長年吸い込み続けると、珪肺(ヨロケ)にかかり短命だった(紙芝居「草倉銅山物語」〔こっこ作・新潟県〕引用)
▲親分子分の契りを交わす「山中取立手打式」
(上写真・下巻物とも長谷川国一氏所蔵)
▼手打式で発行された「坑夫取立出世免状」

 
▲草倉休山後も山中に残された坑夫たちなどのお墓。毎年7月15日に、地元・向鹿瀬と龍蔵寺で無縁仏供養を営んでいる。(山口冬人氏撮影)
▲古河機械金属㈱と向鹿瀬地域が山中のお墓を集めて建立した本山の供養塔。龍蔵寺のお墓も集められ、境内に供養塔が建てられた。

坑夫たちなどの無縁墓

 昔の坑夫たちは全国の鉱山を移動しており、亡くなった場所でお墓が建てられても、地元に身寄りがなく無縁墓となっていました。草倉銅山でも地元・向鹿瀬むかいかのせにある龍蔵寺の境内のほか、草倉本山の山中にも坑夫の無縁墓が残されていました。
 近年、古河機械金属㈱(旧・古河鉱業㈱)と向鹿瀬地域の尽力で、こうした龍蔵寺や山中の無縁墓を集め、それぞれ供養塔が建立されました。
 

 

足尾銅山の発展

 

 当初から経営が順調だった草倉とは対照的に、栃木県の足尾銅山は赤字に苦しみ不振を極めていました。そのため、古河市兵衛氏は草倉の収益を足尾に惜しまず投入し、ドイツなど海外から最新の技術や機械を導入して近代化を図ります。

 そうした苦境を乗り越えて、明治17年に新たな大鉱床が発見されると、産銅量は草倉の10倍以上に増大し、足尾は東洋一の銅山へと成長しました。

 ▲繁栄した足尾銅山の様子。写真奥に巨大な製錬所がぼんやりと見える。

(明治期〜大正期/絵葉書写真)


 さらに、輸入機械の国産化などを通じて培われた足尾の技術や人材は、日本を代表する様々な大企業の創業へと結実します。このように、足尾銅山の繁栄は、現在の技術大国・日本の先鞭をつけ、日本の近代産業史に大きな足跡を残しました。

草倉銅山と足尾銅山の産銅量の推移

 足尾の経営権を買い取った明治10年から、草倉が休山する大正3年までの間の、両銅山の産銅量の推移を表したグラフです。明治10年代半ば過ぎまで草倉銅山の産銅量の方が多いですが、足尾で明治17年に大鉱脈が発見されて以降は、足尾が草倉をはるかに上回る産銅量を記録し続けます。足尾銅山はこうして驚異的な産銅量を維持し続けて、東洋一の銅山となりました。

田中正造が世に訴えた、大規模な鉱害問題

 昔はどの鉱山でも製錬の煙や鉱石からしみ出る金属成分などが多少は問題となりましたが、産銅量が飛躍的に増大した足尾銅山では、足尾山中の木々や渡良瀬川下流沿岸の田畑の作物を枯らす大規模な鉱害が、明治20年代に深刻化します。

 栃木県出身議員の田中正造も鉱害問題を国会で追求し始め、明治30年には政府から「鉱毒予防工事命令」が交付され、古河によって大規模な公害防止工事が実施されました。しかし、この工事によっても鉱害を完全に克服できたとは言えず、これ以降も古河鉱業は鉱害防止技術の開発を模索し続けます。

▲田中正造氏(明治期/「鉱毒事件の真相と田中正造翁」〔永島与八著〕引用)

鉱害の克服

 

 戦後、スウェーデンのオートクンプ社の技術を導入した古河鉱業は、「よう製錬法」の実用化に成功します。こうして、製錬時の排煙から硫酸などを取り出す「脱硫」が可能となり、煙による鉱害を完全に克服することができました。

 なお、排煙から取り出した「硫酸」や「素」などの不純物は、別の工業用品として活用されています。特に、後者は「ガリウム砒素」として、今や携帯電話の中などに組み込まれるICチップの製造に欠かせないきわめて重要な物質となっています。

 ▲銅鉱石の製錬過程で除去された濃硫酸を貯める「貯酸タンク」

(昭和31年前後か/「足尾製錬所概要」〔古河機械金属㈱〕引用)


 このように、単に鉱害を克服しただけでなく、そこから副生された物質をうまく活用して、現代の暮らしに欠かせない様々な技術を支えています。

古河財閥から生まれた、様々な大企業

 古河市兵衛は銅の品位を高めるため電気精錬に注力し、明治30年代後半には栃木県の日光市に「日光電気精銅所」が創設されます。精銅は薄く糸状に引き伸ばして電線として利用されるため、この精銅所を横浜の電線会社と合併させることで、「古河電気工業(古河電工)㈱」が誕生しました。同社からはさらに、電線の被膜ゴムを製造する「橫濱護謨製造(現・横浜ゴム)㈱」も設立されています。
 また、ドイツの「シーメンス(ジーメンス)社」と共同で、電気機器を製造する「富士電機㈱」(※「ふじ」は古河の「ふ」と「シーメンス」の「ジ」)を設立、さらにそこから電信部門を独立させて、「富士通信機製造(現・富士通)㈱」を設立しました。
▲ヤマイチ印
 
「山一筋」を意味する古河鉱業の社章。古河グループ企業の社章として現在も使われている。

 

 なお、古河財閥から派生した多数の関連会社で構成される「古河三水会」(古河グループ)の理事会社を務める大企業10社は、下表のとおりです。この表の各社を見るだけでも、現代の日本社会を支える様々な大企業が誕生したことがうかがえます。

 

古河財閥から⽣まれた主な大企業10社 古河機械金属㈱(旧・古河鉱業㈱)
古河電気工業(古河電工)㈱ 横浜ゴム㈱ 日本ゼオン㈱
富士電機㈱ 富士通㈱ ㈱ADEKA
日本軽金属ホールディングス㈱ 朝⽇⽣命保険相互会社 ㈱みずほフィナンシャル・グループ

大正時代

岩越線(現・磐越西線)の開通

 

 いわしろのくに(※現在の福島県西半部)と越後とを阿賀流域を経由して結ぶがんえつ鉄道の敷設は、明治30年に着工したものの、様々な事情から遅滞していました。

 しかし、明治39年の国有化(「岩越線」に改称)を契機に敷設が加速し、新津・喜多方の両方向から順次着工が進みました。そして大正3年に、阿賀野川の峡谷沿いを敷設する津川・野沢間の難工事が完成してついに開通します。なお、3年後の大正6年には、岩越線は現在の「ばんえつ西さいせん」へと改称されました。

▲開通した岩越線(現・磐越西線)。峡谷への鉄道敷設など難工事が続いた。

(大正期か/田辺修一郎氏所蔵)


古河鉱業の副社長だったはらたかし氏と鹿瀬駅の設置

 古河市兵衛氏は渋沢栄一氏など政界の要人と人脈があり、特に外務大臣として活躍したむねみつ氏とは仲が良く、彼の次男を養子に迎え入れるほどでした。後に平民宰相と呼ばれる原敬氏も、陸奥氏の部下だった関係から一時期、古河鉱業の副社長を務めました。
 その後、原敬氏は明治44年に鉄道院総裁に就任しますが、折しも東蒲原郡内では岩越線の敷設が急ピッチで進められていました。実は岩越線の敷設ルート上には当初、鹿瀬駅の設置は予定されていませんでしたが、草倉銅山の製品輸送が有利になるとの思惑から、おそらく原敬氏の影響もあって鹿瀬駅が新設されることになりました。
 これが後に、鹿瀬ダムや鹿瀬工場の建設に当たって、大きな影響を及ぼしてきます。
▲原敬氏(大正期/「近世名士写真 其1」〔近世名士写真頒布会〕引用)
 

 

鹿瀬ダム(鹿瀬発電所)の建設

 

 大正時代、日本は好景気を背景に工業が盛んになり電力需要が増大したことから、全国各地で水力発電所の建造が相次ぎます。

 豊富な⽔量を誇る阿賀野川でも、岩越電力によるダム建設が計画されますが、これほどの大河にダムを建造した事例がなく着工まで難航します。ようやく、大正15年に建設が開始されますが、その後に岩越電力は東信電気㈱に吸収合併されました。

 ▲昭和3年に完成した鹿瀬ダム(昭和3年か/東北電力㈱所蔵)


 東信電気は「味の素㈱」を創業した鈴木三郎助氏による電力会社で、ダム建設の責任者が森のぶてる⽒でした。森氏がダム建設に向けて奔走した結果、昭和3年に当時日本一の発電規模を誇る鹿瀬ダムが完成しました。

ダム建設に活躍した、鹿瀬駅からの鉄道

 鹿瀬ダムはちょうど草倉銅山の河港跡を利用して建造されましたが、草倉銅山の影響で新設された鹿瀬駅も、実はダム建設を影から支えていました。
 当時日本一の発電規模を誇るダムを建造するため、コンクリートの骨材や鉄筋・鉄骨など大量の資材や設備を現場まで搬入しなければならず、それらを鉄道を使ってまずは鹿瀬駅まで輸送した後、鹿瀬駅からは川沿いに鉄道を敷設して搬送しました。
 このように、鹿瀬のような山間の地域で大規模な建設工事を行うには、鉄道の輸送力と工事現場近くにある駅が必要で、その点でも岩越線の開通と鹿瀬駅の新設は時宜にかなっていたと言えます。
▲鉄道が資材を運ぶダム建設現場の様子(昭和初期/「保存版 五泉・村松・東蒲原今昔写真帖」〔郷土出版社〕引用)
▲鹿瀬ダムのスイッチバックのような魚道
(昭和3年か/絵葉書写真)

鹿瀬ダムの魚道といかだ 運搬用のインクライン

 当時、ダムが建設されることで、大きな影響を受けるものが2つありました。
 その1つが、産卵期に海から川の上流へ泳いでくる、サケやマスなどの遡上魚への影響です。通常、ダム建設によって河が遮られ魚が遡上できなくなる場合、ダムに魚道が設置されますが、この鹿瀬ダムの場合も魚道が設置されたものの、スイッチバックのような構造の魚道だったため、遡上魚はダム上流に遡上しづらくなりました。
 もう1つが、阿賀野川で大規模に行われていた筏流しへの影響です。当時、豊実や鹿瀬地域を流れる阿賀野川には、上流の只見川から大量の筏が流送されていました。
 そのため、豊実や日出谷、深戸といった阿賀野川沿いの集落では、大勢の人々が筏師を生業の1つにしており、ダムが建設されても筏流しを続けられる措置を講じる必要がありました。そこで、考案されたのが、筏運搬用のインクラインの設置です。
 インクラインの場所はダムのすぐ横の阿賀野川右岸側(※左岸側は発電所)に配置され、そこにダムの上流側と下流側をつなぐ軌道と筏運搬用の荷台が設置されました。筏が流送されてくると、この荷台に積載してダムの下流側へとおろした訳です。
 昭和30年代に入りトラック運送が主流となって押され気味だった阿賀野川の筏流しは、昭和38年の揚川ダムの建設を契機に幕を閉じ、役目を終えたインクラインの跡地には現在、第二鹿瀬発電所が建っています。
▲筏を荷台に載せて運ぶインクライン
(昭和3年か/「保存版 五泉・村松・東蒲原今昔写真帖」〔郷土出版社〕引用)

昭和時代

鹿瀬工場の誕生

 

 昭和3年に鹿瀬ダムが完成した当時、日本は昭和金融恐慌など不景気に陥っており、東京に売却予定だった電気は売れずに大量に余ってしまいます。そこで、ダム工事責任者の森のぶてる氏はなんと、ダムの近くに余剰電力を大量に消費する大工場の建設を着想します。それが鹿瀬工場でした。

 そこから森氏は素早く動き、ダムのすぐ近くに広がる大美田を借り上げて大工場の建設に着手し、たった1年後の昭和4年に工場の操業にこぎつけました。

▲操業開始間もない頃の鹿瀬工場(昭和ゼロ年代か/田辺修一郎氏所蔵)


▲森矗昶(のぶてる)氏(昭和10年代前半か/「森矗昶所論集」〔昭和電工㈱〕引用)

当初は化学肥料の製造工場だった、昭和電工㈱鹿瀬工場

 鹿瀬工場では当初、阿賀野川上流の左岸から石灰岩が豊富に採掘されたことから、鹿瀬ダムの余剰電力を利用する電気化学方式によって、「石灰窒素」と呼ばれる肥料を製造し始めました。意外と知られていないのですが、鹿瀬工場は当初、肥料工場としてスタートしており、当時の社名も「昭和肥料㈱鹿瀬工場」でした。
 その後、この昭和肥料㈱は、森矗昶氏の別会社でアルミニウムの国産化に成功した日本電気工業㈱と合併して、昭和14年に現在の「昭和電工㈱」が誕生します。初代の代表取締役には森矗昶氏が就任しました。
 

石灰岩からカーバイドを経て、化学肥料ができるまで 

 原料の石灰岩は、工場から数キロメートル下流にある阿賀野川左岸側の小花地やすいたに沢の原石山から採掘され、工場までは索道(空中ケーブル)に載せられ運ばれました。
 工場に運ばれた石灰岩はポリヂュース炉で焼いてせいせっかいにした後、コークス(石炭)と混ぜて2000℃の高温で熱すると、「カーバイド」(炭化カルシウム)と呼ばれる物質になります。このカーバイドに窒素を混ぜて再び熱を加えることで、化学肥料の「石灰窒素」が製造されました。
 なお、このカーバイドですが、水に反応してガス(アセチレンガス)を出す性質があります。そのため、昔はカーバイドに水を滴下して発生させたガスに引火して、洞窟内などを照らすランタンなどに利用されていました。この「水に反応してアセチレンガスを発生させる」というカーバイドの化学的な性質を利用して、鹿瀬工場は後に有機化学の道を歩むことになります。
▲持ち上げられるカーバイドのかたまり(新潟昭和㈱所有)
▲阿賀野川沿い小花地の原石山(昭和ゼロ年代後半/鈴木貞孝氏所有)
▲石灰岩を運ぶ索道(空中ケーブル)
(昭和20年代/鹿瀬工場タイムス)
▲石灰岩を焼いたポリヂュース炉
(昭和20年代/鹿瀬工場タイムス)
▲石灰窒素の製品
(昭和33年/しょうわ10月号引用)

企業城下町の発展

 

 終戦直後の昭和20年代前半、食糧増産から肥料が飛ぶように売れたため、この時期に鹿瀬工場は一挙に発展して、最盛期には従業員数が2〜3,000名にまで拡大します。

 工場の前に整然と建ち並んだ「ハーモニカ長屋」と呼ばれる社宅には、従業員の家族を含めた大勢の人々が暮らし、企業がインフラや娯楽施設まで提供する大きな企業城下町が形成されました。

 ▲鹿瀬工場と企業城下町の全景(昭和20年代後半/鹿瀬工場タイムス引用)


ハーモニカ長屋、映画館、プール、幼稚園、遊び回る子どもたちの歓声

 工場では朝の通勤時間ともなると、大勢の従業員が大挙して押し寄せる都会のような風景が見られました。近隣の地域や遠くは五泉市などから列車で通勤する人も多く、鹿瀬駅の時刻表は工場の出退勤の時間に合わせて組まれていたそうです。
 「電工会館」という名前の映画館、「東蒲デパート」と呼ばれた電工売店、私立幼稚園や工場前のプール、病院や水道施設なども鹿瀬工場が設営しており、従業員や地域の人々などに娯楽や教育、生活インフラなどを提供していました。また、ハーモニカ長屋には、昭和電工㈱に入社した全国各地の人々が移り住んできていました。とにかく子どもたちの数が多く、社宅の路地では大勢の子どもたちがいつも遊び回っていたと言われています。
▲朝の通勤風景(昭和20〜30年代/「阿賀の里・下」(東蒲原郡誌編さん委員会))
▲社宅のにぎやかな祭り(昭和20〜30年代/沖田信悦氏所蔵)
▲私立昭和電工㈱鹿瀬工場幼稚園(昭和20〜30年代/沖田信悦氏所蔵)
▲電工会館という名前の映画館(昭和20〜30年代/沖田信悦氏所蔵)
▲昭和11年建造の電工プール(昭和20〜30年代/沖田信悦氏所蔵)

有機化学への傾斜

 

 昭和20年代後半になると日本全国の食糧難も解消され、肥料が以前ほど利益を生まなくなり、鹿瀬工場は毎月の赤字に苦しむようになります。

 折しも昭和30年代の高度経済成長期に入ると、白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機といった、いわゆる「三種の神器」が日本全国に普及し始めました。こうした家電製品にはプラスチックやビニルなどの新素材が多く使われていたことから、その大元の原料となる「アセトアルデヒド」の需要が一気に増大します。

 実は、このアセトアルデヒドは、カーバイドに水を反応させて発生させたアセチレンガスに、触媒である硫酸第二水銀と水を加えて化学変化させることで製造することが可能でした。

 ▲アセトアルデヒド製造プラント(昭和34年/鹿瀬工場タイムス引用)


 こうして、赤字の解消を目指す鹿瀬工場では、カーバイドから石灰窒素を製造する無機化学分野を縮小し、カーバイドからアセトアルデヒドを製造する有機化学分野への転換を図るため、工場に巨大な製造プラントを増設してアセトアルデヒドの生産量を増大させました。

当時の社会背景とリンクした主力製品の交代

 これまで見てきたように、昭和電工㈱鹿瀬工場における石灰窒素からアセトアルデヒドへの主力製品の交代は、戦後復興期から高度経済成長期にかけての日本社会の劇的な変化が大きく関係していることが分かります。
 さらに、従業員を3,000名も抱える大工場の慢性的な赤字という個別の事情も加わって、その解消に必死になるあまり主力製品の交代が加速しました。
▲三種の神器 〜 白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機(松戸市立博物館提供)
▲鹿瀬工場タイムスの記事
肥料価格の急落と工場の赤字を伝える。
▲石灰窒素とアセトアルデヒドの生産量の推移。昭和20年代から30年代にかけて主力製品が交代している。
▲当時の鹿瀬工場内の製造工程イメージ
上段が石灰窒素で、下段が有機化学製品
 

 

新潟水俣病の発生

 

 鹿瀬工場が有機化学分野へ進出したことで、結果的に阿賀野川沿岸で新潟水俣病が発生してしまいます。

 アセチレンガスからアセトアルデヒドを製造する過程で、触媒である硫酸第二水銀が有機水銀へと変質してしまい、それが工場排水とともに阿賀野川へ流れ出ていたことが原因でした。

 阿賀野川の中では、食物連鎖を通じた生物濃縮が発生して、川魚には高濃度の有機水銀が蓄積していました。それらを貴重なタンパク源として、昭和30年代の阿賀野川沿岸集落に暮らす人々は、毎日のように食べ続けていたのです。

 そして、昭和40年5月31日、新潟県は原因不明の有機水銀中毒患者が発生しているとの報告を新潟大学から受けます(※この日が公式確認の日)。

▲鹿瀬工場の排水口。ここからかつて有機水銀が阿賀野川へ流れ出た。

なお、現在の排水口は当時の排水口とは異なる。(山口冬人氏撮影)


 新潟県と新潟大学はすぐさま調査を進め、6月12日に合同で公表に踏み切ります。こうして、阿賀野川下流の沿岸集落における新潟水俣病の発生が表面化しました。

新潟水俣病の提訴と「四大公害」

 人間が有機水銀を摂取すると消化管から吸収され脳にも到達しますが、長い間摂取し続けると中枢神経に蓄積して神経細胞を傷つけます。発生当初は死亡者を含む重症患者もいましたが、現在は大半の被害者が手足の感覚障害などの神経症状に苦しんでいます。
 当初、発生原因の特定が進まない中、新潟水俣病の被害者は支援団体のサポートを受けて、四大公害の中では初めて昭和42年に裁判に訴え出ます。この動きはその他の公害発生地にも勇気を与え、全国各地で四大公害などの提訴が相次ぎました。
 昭和40年代に提起された新潟水俣病の裁判は、昭和46年に被害者側が勝訴を勝ち取り、昭和48年には被害者と昭和電工㈱との間で補償協定が締結されました。しかし、その後も水俣病の訴えや裁判は相次ぎ、新潟水俣病問題は現在も継続しています。

新潟水俣病

▲新潟水俣病の初期の重症患者
(昭和40年/「写真で語る新潟県の百年」
〔新潟県史研究会編/㈱野島出版〕引用)

熊本水俣病

▲怨の旗を林立させて熊本地裁前に
集まった熊本水俣病被害者の支援団体
(昭和48年3月20日読売新聞)

イタイイタイ病

▲富山地裁での患者側勝訴を萩野医師から知らされ思わず合掌するイタイイタイ病の入院患者たち
(昭和46年6月30日毎日新聞)

四日市ぜんそく

▲四日市ぜんそくを懸念して、公害マスクをつけて登下校する工場近くの四日市市の小学生
(昭和40年4月毎日新聞)

阿賀野川の安全宣言

 

 新潟水俣病が発生して以降、阿賀野川の川魚は食用抑制が指導され、有機水銀汚染がないか川魚や川底の土などを採取して毎年調査されています。

 そうした中、昭和50年に排水口周辺の川底から、基準値を超える有機水銀が検出されたことから、他にも有機水銀汚染が残っていないか、阿賀野川の総合的な調査が展開されました。その結果、汚染は排水口周辺のみと判明し、川底の土を入れ替える浚渫工事を行った結果、有機水銀汚染の影響は解消されました。

▲排水口周辺の阿賀野川の有機水銀汚染もなくなった(山口冬人氏撮影)


 こうした結果を受けて、新潟県は昭和53年に「阿賀野川の安全宣言」を行います。また、これと併せて、川魚の水銀値も基準値以下の水準が続いていたことから、新潟県は川魚の食用抑制も解除しました。

現在の工場における排水処理について

 昭和電工㈱鹿瀬工場は昭和40年12月に本社から分離され鹿瀬電工㈱となった後、昭和61年に新潟昭和㈱となって現在も操業しています。ちなみに、アセトアルデヒドは昭和40年1月には製造が停止され、それ以降は石油を原料にして安全に製造されています。
 現在の工場における排水は24時間体制で監視しながら、法律よりも厳しい阿賀町独自の基準で安全に処理されてから、阿賀野川に流されています。
 また、昭和電工㈱では新潟水俣病の発生を反省して、新潟県や阿賀町、一般社団法人あがのがわ環境学舎と協働して、大学生や企業の社員、行政職員などを対象に工場をオープンにして、「現在の工場の排水処理を視察するプログラム」を実施しています。
▲昭和電工㈱などが実施する「現在の工場の排水処理を視察するプログラム」の様子

そして、現在へ

阿賀町のこれから

 現在の阿賀町からはすでに公害による環境汚染はなくなり、緑豊かな⼭々から流れ出る清らかな⽔が阿賀野川へ合流し、様々な恵みをもたらしています。

 特に近年は、この清らかな水と素晴らしい自然環境を守り生かして、全国的に大変評価の高いお米やお酒が生産されるようになりました。

 現在の阿賀町では、過去の光と影にも向き合いつつ、このかけがえのない地域資源を守りながら、阿賀町の未来に活かしています。

▲阿賀野川の眺望(山口冬人氏撮影)


 

―――清らかな⽔と豊かな自然こそ、今の阿賀町にとって、かけがえのない宝もの

 

 

米 日本中から注目される阿賀町のお米

 
 阿賀町で⽣産されるお⽶は大変美味しいと評判で、全国の百貨店でも販売されるなど、ブランド⽶として非常に人気があります。近年は数ある有名国産⽶の中から、JAL国際線のファースト・ビシネスクラスの機内⾷として選ばれました。
(㈱越後ファームサイト等から引用した画像を加工)

酒 お酒の命である⽔とお⽶を⼤切に

 
 美味しい酒造りには、清らかな仕込み⽔と質の⾼い酒⽶が命と言われ、まさに阿賀町の豊かな自然環境が適しています。そのため、阿賀町にある酒蔵では、森林整備・空瓶再利⽤などの環境保全や酒⽶の地元調達などに⼒を注いでいます。
(麒麟山酒造・下越酒造サイトから引用・提供された画像を加工)