草倉銅山の坑道跡(写真撮影:山口冬人氏)
かつて阿賀野川流域では、大河がもたらす恵みを享受する暮らしが営まれ、重要な交通路だった阿賀野川では舟運が盛んでした。
ところが、明治以降になると阿賀野川上流域では、草倉銅山や鹿瀬ダム、昭和電工㈱鹿瀬工場といった、日本の近代化を支えた様々な産業が盛衰します。これらの産業は、地元に繁栄をもたらす一方で、新潟水俣病といった公害も引き起こすなど、近代日本の縮図とでも言うべき光と影の変遷をたどってきました。
このページでは、この「阿賀の近代産業がたどった光と影」について、もう少し詳しく解説します。
阿賀野川では江戸時代に入ると、大河・阿賀野川を利用した舟運が盛んになります。
特に、津川の河港から新潟湊までは、「津川船道」が統制する巨大な舟運ルート(津川河港 ー 阿賀野川 ー 小阿賀野川 ー 信濃川 ー 新潟湊)で、日に何艘もの帆掛け舟が往来していました。
▲阿賀野川を遡上する帆掛け舟(明治後期〜大正前期か/田辺修一郎氏所蔵)
すでに江戸期に発見されていた草倉銅山は、明治8年に津川の商人・平田治八郎氏から経営権を買い取った古河市兵衛氏によって、本格的に開発されました。なお、古河氏は2年後の明治10年に、あの有名な栃木県の足尾銅山の権利も買い取っています。
“無類の宝山”とも呼ばれた草倉銅山は、すぐに多くの銅を産出するようになり、明治16年には国内第2位の産銅量を誇るまでになりました。
▲明治15年、角神に建設された最新設備の製錬所(明治期/小野崎敏氏所蔵)
当初は採掘した鉱石を本山で製錬していましたが、すぐに産銅量が増大して燃料の木々も伐採してしまったため、本山ふもとの角神という地域に、最新設備の製錬所を明治15年に建設して、そこで粗銅を生産しました。
この製錬所のすぐわきを流れる阿賀野川には草倉銅山の河港があって、製錬所で生産した粗銅をこの河港から帆掛け舟に積み込み、阿賀野川をくだって出荷していました。
▲製錬した粗銅を出荷した草倉銅山の河港。奥には製錬所の煙が見える。
(明治期/柏崎市立図書館所蔵小竹コレクション)
古河は16艘もの帆掛け舟を所有しており、その白い帆には古河の社章である「ヤマイチ印」のロゴマークが描かれていました。古河の帆掛け舟が阿賀野川を往来する光景は、それはそれは壮観だったそうです。
草倉銅山は本山とふもとの角神本局に分かれ、最盛期には両地域を合わせて、家族も含めると6,000名もの人々が暮らしていたと、草倉銅山の事務員が手記に記しています。当時の草倉本山には住宅だけでなく、病院や派出所、商店などもあって、市場も開かれるなど大変にぎやかで活気にあふれていました。
さらに、郡内にまだ電話のない時代に本山含め十数か所に電話機があって、牛乳を飲む習慣もあったなど、当時の先進文化も取り入れられていました。
▲草倉本山の様子。山腹には建物が建ち並び、人馬の姿も見える。
(明治期/小野崎敏氏所蔵)
しかし、明治後期に入ると鉱床が枯渇して、草倉銅山の産銅量はみるみるうちに減少していきます。草倉の鉱夫とその家族は少しずつ足尾銅山へと移っていき、大正3年にとうとう休山してしまいました。
坑夫たちは珪肺や落盤事故などによって、その大半が30〜40代で亡くなるほど労働環境が劣悪で、「太く短く生きる」「かかあ一人に亭主三人」などとも言われていました。
そのため、坑夫の間では親分子分の契りを結びお互いを助け合う「友子同盟」が発展します。親分子分は固い絆で結ばれ、どちらか先立った方のお墓を残された者が建立しました。
当初から経営が順調だった草倉とは対照的に、栃木県の足尾銅山は赤字に苦しみ不振を極めていました。そのため、古河市兵衛氏は草倉の収益を足尾に惜しまず投入し、ドイツなど海外から最新の技術や機械を導入して近代化を図ります。
そうした苦境を乗り越えて、明治17年に新たな大鉱床が発見されると、産銅量は草倉の10倍以上に増大し、足尾は東洋一の銅山へと成長しました。
▲繁栄した足尾銅山の様子。写真奥に巨大な製錬所がぼんやりと見える。
(明治期〜大正期/絵葉書写真)
さらに、輸入機械の国産化などを通じて培われた足尾の技術や人材は、日本を代表する様々な大企業の創業へと結実します。このように、足尾銅山の繁栄は、現在の技術大国・日本の先鞭をつけ、日本の近代産業史に大きな足跡を残しました。
昔はどの鉱山でも製錬の煙や鉱石からしみ出る金属成分などが多少は問題となりましたが、産銅量が飛躍的に増大した足尾銅山では、足尾山中の木々や渡良瀬川下流沿岸の田畑の作物を枯らす大規模な鉱害が、明治20年代に深刻化します。
栃木県出身議員の田中正造も鉱害問題を国会で追求し始め、明治30年には政府から「鉱毒予防工事命令」が交付され、古河によって大規模な公害防止工事が実施されました。しかし、この工事によっても鉱害を完全に克服できたとは言えず、これ以降も古河鉱業は鉱害防止技術の開発を模索し続けます。
戦後、スウェーデンのオートクンプ社の技術を導入した古河鉱業は、「自熔製錬法」の実用化に成功します。こうして、製錬時の排煙から硫酸などを取り出す「脱硫」が可能となり、煙による鉱害を完全に克服することができました。
なお、排煙から取り出した「硫酸」や「砒素」などの不純物は、別の工業用品として活用されています。特に、後者は「ガリウム砒素」として、今や携帯電話の中などに組み込まれるICチップの製造に欠かせないきわめて重要な物質となっています。
▲銅鉱石の製錬過程で除去された濃硫酸を貯める「貯酸タンク」
(昭和31年前後か/「足尾製錬所概要」〔古河機械金属㈱〕引用)
このように、単に鉱害を克服しただけでなく、そこから副生された物質をうまく活用して、現代の暮らしに欠かせない様々な技術を支えています。
なお、古河財閥から派生した多数の関連会社で構成される「古河三水会」(古河グループ)の理事会社を務める大企業10社は、下表のとおりです。この表の各社を見るだけでも、現代の日本社会を支える様々な大企業が誕生したことがうかがえます。
古河財閥から⽣まれた主な大企業10社 | 古河機械金属㈱(旧・古河鉱業㈱) | |
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古河電気工業(古河電工)㈱ | 横浜ゴム㈱ | 日本ゼオン㈱ |
富士電機㈱ | 富士通㈱ | ㈱ADEKA |
日本軽金属ホールディングス㈱ | 朝⽇⽣命保険相互会社 | ㈱みずほフィナンシャル・グループ |
岩代国(※現在の福島県西半部)と越後とを阿賀流域を経由して結ぶ岩越鉄道の敷設は、明治30年に着工したものの、様々な事情から遅滞していました。
しかし、明治39年の国有化(「岩越線」に改称)を契機に敷設が加速し、新津・喜多方の両方向から順次着工が進みました。そして大正3年に、阿賀野川の峡谷沿いを敷設する津川・野沢間の難工事が完成してついに開通します。なお、3年後の大正6年には、岩越線は現在の「磐越西線」へと改称されました。
▲開通した岩越線(現・磐越西線)。峡谷への鉄道敷設など難工事が続いた。
(大正期か/田辺修一郎氏所蔵)
大正時代、日本は好景気を背景に工業が盛んになり電力需要が増大したことから、全国各地で水力発電所の建造が相次ぎます。
豊富な⽔量を誇る阿賀野川でも、岩越電力によるダム建設が計画されますが、これほどの大河にダムを建造した事例がなく着工まで難航します。ようやく、大正15年に建設が開始されますが、その後に岩越電力は東信電気㈱に吸収合併されました。
▲昭和3年に完成した鹿瀬ダム(昭和3年か/東北電力㈱所蔵)
東信電気は「味の素㈱」を創業した鈴木三郎助氏による電力会社で、ダム建設の責任者が森矗昶⽒でした。森氏がダム建設に向けて奔走した結果、昭和3年に当時日本一の発電規模を誇る鹿瀬ダムが完成しました。
昭和3年に鹿瀬ダムが完成した当時、日本は昭和金融恐慌など不景気に陥っており、東京に売却予定だった電気は売れずに大量に余ってしまいます。そこで、ダム工事責任者の森矗 昶氏はなんと、ダムの近くに余剰電力を大量に消費する大工場の建設を着想します。それが鹿瀬工場でした。
そこから森氏は素早く動き、ダムのすぐ近くに広がる大美田を借り上げて大工場の建設に着手し、たった1年後の昭和4年に工場の操業にこぎつけました。
▲操業開始間もない頃の鹿瀬工場(昭和ゼロ年代か/田辺修一郎氏所蔵)
終戦直後の昭和20年代前半、食糧増産から肥料が飛ぶように売れたため、この時期に鹿瀬工場は一挙に発展して、最盛期には従業員数が2〜3,000名にまで拡大します。
工場の前に整然と建ち並んだ「ハーモニカ長屋」と呼ばれる社宅には、従業員の家族を含めた大勢の人々が暮らし、企業がインフラや娯楽施設まで提供する大きな企業城下町が形成されました。
▲鹿瀬工場と企業城下町の全景(昭和20年代後半/鹿瀬工場タイムス引用)
昭和20年代後半になると日本全国の食糧難も解消され、肥料が以前ほど利益を生まなくなり、鹿瀬工場は毎月の赤字に苦しむようになります。
折しも昭和30年代の高度経済成長期に入ると、白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機といった、いわゆる「三種の神器」が日本全国に普及し始めました。こうした家電製品にはプラスチックやビニルなどの新素材が多く使われていたことから、その大元の原料となる「アセトアルデヒド」の需要が一気に増大します。
実は、このアセトアルデヒドは、カーバイドに水を反応させて発生させたアセチレンガスに、触媒である硫酸第二水銀と水を加えて化学変化させることで製造することが可能でした。
▲アセトアルデヒド製造プラント(昭和34年/鹿瀬工場タイムス引用)
こうして、赤字の解消を目指す鹿瀬工場では、カーバイドから石灰窒素を製造する無機化学分野を縮小し、カーバイドからアセトアルデヒドを製造する有機化学分野への転換を図るため、工場に巨大な製造プラントを増設してアセトアルデヒドの生産量を増大させました。
鹿瀬工場が有機化学分野へ進出したことで、結果的に阿賀野川沿岸で新潟水俣病が発生してしまいます。
アセチレンガスからアセトアルデヒドを製造する過程で、触媒である硫酸第二水銀が有機水銀へと変質してしまい、それが工場排水とともに阿賀野川へ流れ出ていたことが原因でした。
阿賀野川の中では、食物連鎖を通じた生物濃縮が発生して、川魚には高濃度の有機水銀が蓄積していました。それらを貴重なタンパク源として、昭和30年代の阿賀野川沿岸集落に暮らす人々は、毎日のように食べ続けていたのです。
そして、昭和40年5月31日、新潟県は原因不明の有機水銀中毒患者が発生しているとの報告を新潟大学から受けます(※この日が公式確認の日)。
▲鹿瀬工場の排水口。ここからかつて有機水銀が阿賀野川へ流れ出た。
なお、現在の排水口は当時の排水口とは異なる。(山口冬人氏撮影)
新潟県と新潟大学はすぐさま調査を進め、6月12日に合同で公表に踏み切ります。こうして、阿賀野川下流の沿岸集落における新潟水俣病の発生が表面化しました。
新潟水俣病が発生して以降、阿賀野川の川魚は食用抑制が指導され、有機水銀汚染がないか川魚や川底の土などを採取して毎年調査されています。
そうした中、昭和50年に排水口周辺の川底から、基準値を超える有機水銀が検出されたことから、他にも有機水銀汚染が残っていないか、阿賀野川の総合的な調査が展開されました。その結果、汚染は排水口周辺のみと判明し、川底の土を入れ替える浚渫工事を行った結果、有機水銀汚染の影響は解消されました。
▲排水口周辺の阿賀野川の有機水銀汚染もなくなった(山口冬人氏撮影)
こうした結果を受けて、新潟県は昭和53年に「阿賀野川の安全宣言」を行います。また、これと併せて、川魚の水銀値も基準値以下の水準が続いていたことから、新潟県は川魚の食用抑制も解除しました。
現在の阿賀町からはすでに公害による環境汚染はなくなり、緑豊かな⼭々から流れ出る清らかな⽔が阿賀野川へ合流し、様々な恵みをもたらしています。
特に近年は、この清らかな水と素晴らしい自然環境を守り生かして、全国的に大変評価の高いお米やお酒が生産されるようになりました。
現在の阿賀町では、過去の光と影にも向き合いつつ、このかけがえのない地域資源を守りながら、阿賀町の未来に活かしています。
▲阿賀野川の眺望(山口冬人氏撮影)
―――清らかな⽔と豊かな自然こそ、今の阿賀町にとって、かけがえのない宝もの