阿賀町の小・中学校では現在、この紙芝居教材などを活用して、阿賀町の近代産業の歴史などを学ぶ授業がスタートしています。
こうした授業や学習を通じて、阿賀町の小・中学生が日本の近代化に貢献した阿賀町の近代産業の変遷を学びつつ、自らが生まれ育つ郷土への誇りや愛着を失うことなく、近代化の過程で発生した環境問題からも教訓を学び取る力を涵養するきっかけになってくれればと考えています。
なお、紙芝居の絵は、最初に新潟青陵大学四年生(当時)の髙嶋留莉さん・小林友歌子さん・山田桜子さんから描いていただいた原画に、様々な時代考証などを加えてさらに本格的な仕上がりとし、原画の一部は弊舎が以前に作成に関わった紙芝居「草倉銅山物語」(作者:こっこ)を参照しました。
また、紙芝居の本文は阿賀町の小・中学校の先生方などからも監修していただき、教材を検証する授業には多くの小・中学校から参加していただきました。
物語のはじまり
阿賀野川
草倉銅山
阿賀野川がゆったりと流れ、緑ゆたかな山々にかこまれた新潟県・阿賀町。
ここではかつて、全国で1〜2の生産量をほこった銅山や、日本一の水力発電所、大きな化学工場など、日本の発展や人々の便利なくらしに役立った「近代産業」がありました。
たくさんの人たちが働き、くらして、活気があったにぎやかな時代。
それはどんな時代だったのでしょうか?
この地域をずっと見守ってきた、阿賀野川に話を聞いてみましょう。
わしは阿賀野川。
福島県から新潟県を通って日本海へそそぐ大きな川じゃ。
長さが日本で10番目なのに、流れる水は2番目に多いのじゃが、その理由がわかるかな?
そう、雪がたくさんふる山と深い森の間を流れてくるから、水の量が豊かなのじゃよ。
ワシの自まんのこの豊かで清らかな水にはなァ、サケやアユ、コイなど、様々な種類の魚たちが数多くすんでいるぞ。
それに水辺には無数の昆虫や植物も生きているからなあ。
大昔からワシは「命をはぐくむ宝の川」だったんじゃ。
鉄道やクルマが無かった時代、川は道の役割もはたしていたぞ。
人々は川に船やイカダをうかべて、モノを運び移動したのじゃ。
むかし阿賀町の津川には、大きな川港があって、たくさんの船が川にうかんでおった。
少し上流の鹿瀬には、草倉銅山というのがあって、そこからも船が行き来しておったよ。
今日は阿賀町で栄えた近代産業のことを聞きにきたのじゃったな。
よし、まずはこの草倉銅山の話から始めるとするか。
阿賀町は金や銅、石灰石などの鉱山が、いくつもあったのじゃ。
中でも、江戸時代に発見された草倉銅山は、とびきり宝の山じゃった。
明治8年8月8日、古河市兵衛という人が、津川の平田さんから、銅山をほる権利を買ったのじゃ。
草倉銅山は、古河さんが最初に買い取った銅山じゃったが、この人は、あの有名な栃木県の足尾銅山も買い取った。
いつしか「日本の鉱山王」とよばれ、古河財閥という大きなグループを築くまでになったのじゃ。
グループには、世界的に有名な会社も多いのじゃが、みんな、「阿賀町の草倉銅山こそ自分たちの出発地点」として、忘れないようにしてくれているわい。
話を草倉銅山にもどそうか。
古河さんは、外国の新しい知識や技術を持ちこんで、草倉銅山をどんどん発展させたのじゃ。
もともと銅が豊富じゃったから、大ぜいの優秀な坑夫が、銅をたくさんほり出していった。
(坑夫A)「この山は、本当にたくさん、銅が出るなあ」
(坑夫B)「給料もよくなるから、もっとたくさん、ほり出そうぜ」
草倉銅山は、すぐにたくさんの銅がとれるようになって、明治16年には、日本で1〜2をあらそう銅山になった。
銅は金属の中ではとてもやわらかく、細く引きのばして電線の材料として使われるが、ちょうどたくさん電気が使われ始めた時代じゃったから、草倉の銅はよく売れたのじゃ。
ところで、銅は山からほり出したら、すぐ売れるというものではないのだぞ。
ほり出した銅を、高い温度で焼いたりとかしたりする、「製錬」という作業をして、きれいな金属にしなければ、売れないのじゃ。
しかし、その作業、煙はたくさん出るし、熱くて大変な作業だったらしいなあ。
最初のうちは、この製錬を山の上で行っていたのじゃが、銅があまりにもたくさんとれ、燃料に使う山の木もきりつくしてしまった。
そこで、山をくだった阿賀野川沿い、ちょうど今の鹿瀬発電所がある角神という場所に、大きな製錬所がつくられてなあ、そこで製錬することになったのじゃ。
それからは、この製錬所が昼も夜も煙をモクモクとはき出しながら、ますます多くの銅をつくるようになったなあ。
製錬所わきの阿賀野川には、草倉銅山専用の川港があってのォ、帆に「ヤマイチ」の印をえがいた大船が何そうもとまっておった。
ここから船に積みこまれた銅は、阿賀野川をくだって、新潟から日本国内はもちろん外国まで運ばれて、多くのお金をかせぎ出したのじゃよ。
そのころ足尾銅山は、銅があまりとれずに困っておってのォ。
じゃが、足尾の山に銅がたくさんあると信じていた古河さんは、草倉のもうけをほとんど足尾につぎこんで、銅をほり続けたそうな。
草倉銅山が最も栄えたころは、全国から多くの人が働きにきていてのォ、家族もふくめ6千人もの人々がくらした、と言われておる。
草倉の山の中には住宅はもちろん、学校・病院・駐在所・商店などがあって、市場も開かれて、町のようなにぎわいを見せていたのじゃ。
そのころまだ、めずらしかった電話もあってなあ。
(子どもA)「もしもし、聞こえる?」
(子どもB)「もしもし? 聞こえるよー」
大人も子どもも、あちこちから最新の銅山を見学に来たものだが、いま思えば、このころが草倉銅山の最も良い時代だったのかもしれないなあ。
ところで、銅があまりとれず困っていた足尾だがのォ、古河さんがほりはじめて7年目に、とうとう巨大な銅のかたまりをほり当てたのじゃ。
草倉の10倍以上も銅がとれるようになって、足尾はあっという間に「東洋一の銅山」になったのじゃよ。
じゃが、喜んでばかりもいられなかった。
というのも、煙が山の木をたくさん枯らせてしまうなどの被害が出たからじゃ。
この被害を、国会議員だった田中 正 造という人が訴えたことで、全国の人々が知る大事件になってしまった。
現在では、この事件が日本で最初に発生した公害だと言われている。
足尾の事件をきっかけに、銅山では煙などから、害のあるモノを取りのぞく技術を生み出したのじゃ。
現在では、世界中の多くの銅山で、その技術が使われているぞ。
そんな銅山から生まれた技術や部品のおかげでな、みんなが使うスマホやゲーム機も作ることができるのじゃ。
そのほかにも、コンピュータなどの電化製品や、様々なものに使われて、いまの豊かで便利なくらしを支えておる。
日本の工業技術が、今のように進んでいるのは、もしかしたら草倉銅山があったから、とも言えるかなあ。
そんなふうに考えると、少しワクワクしてくるなあ。
さてワシにとっては、重大事件といっていいじゃろう。
明治の後半になると、全国各地に鉄道がつくられ始めたのじゃ。
それまでは川を利用して、人やモノを運んでいたのが、蒸気機関車という、まったく新しい乗り物が登場したのじゃ。
このあたりでも、阿賀野川に沿って鉄道の工事が始まって、草倉銅山により近い場所に駅がつくられた。
それがいまの磐越西線・鹿瀬駅じゃよ。
ところが、せっかく鉄道が開通した大正3年、草倉では銅がほとんどとれなくなって、働いていた人は足尾銅山などへ移ってしまったのじゃ。
鉄道を使って草倉をもり上げたいと思っていたのだろうに……なんとも残念なできごとじゃった……。
大正時代に入ると、その鉄道を利用して、全国各地に大きな工場が建設された。
工場は電気をたくさん使うから、この阿賀野川にも、発電所がつくられることになったのじゃ。
しかし、ワシのような大きな川をせき止めるには、大量の石やコンクリートが必要だったから、それを運ぶ手段がなければ、つくることはできなかったのじゃ。
ところが、人間たちは、鹿瀬駅から製錬所があった角神までレールをしいて、大量の石やセメントや鉄骨を運んで、ここにダムをつくりはじめた!
(魚A)「ダムができたら、ぼくたち魚は、川を行ったり来たりできなくなる」
(魚B)「くらしている人間たちだって、船やイカダを通せなくなるぞ!」
魚たちの悲鳴は聞こえたが、国を発展させ人々のくらしを豊かにするためには、しかたのないことじゃったのかなあ。
工事は大正時代の終わりから始まり、たった3年で完成した。
それがいまの鹿瀬ダム・鹿瀬発電所じゃよ。
そのころ、 鹿瀬発電所の工事責任者だった、森矗昶という人が、何やら頭をかかえこんでおったな。
(森)「日本一の発電所なのに、電気が売れない! このままだと大赤字だ! 困った!」
このころ、運悪く日本の景気が悪くなって、大都市・東京に売る予定だった電気が、売れなくなってしまったのじゃ。
そこで、森さんは必死に考え、良いアイデアがひらめいた!
(森)「そうだ! 鹿瀬発電所の近くに工場をつくって、そこで電気を使えばいいんだ」
この森という人は、思いついたら行動がすばやかった。
鹿瀬駅に近かった広い田んぼを借りて、そこまで駅から線路をしいて、材料や機械を運びこみ、ダム完成からわずか1年で大工場を完成させた。
それが、昭和電工・鹿瀬工場じゃ。
ところでみんな、鹿瀬工場では初め、何をつくっていたか知っているかな?
工場は最初、「石灰窒素」とよばれる肥料をつくる工場としてスタートしたのじゃ。
原料はなんとビックリ!阿賀野川の左側の山々からほり出される、「石灰岩」とよばれる石なんじゃ。
その石を、スキー場のリフトのようなもので、山をこえて工場へ運びこんで、電気の力を使って、「カーバイド」とよばれるモノを作り出す。
そのカーバイドから、「石灰窒素」という肥料ができるんじゃよ。
それから、鹿瀬 工場の発展は、目覚ましかった!
とくに、戦争が終わった昭和20年ころは、日本中で食べ物が不足していた時代で、米や野菜をたくさんつくるために、肥料は飛ぶように売れたのじゃ。
このころ働く人が、いっぺんに2〜3千人にも増えた。
家族ぐるみで近くに住んでいた社員もいたから、工場のまわりには、おどろくほど多くの人々がくらしていたのじゃ。
ほかの地域からも多くの人が働きに来ていて、朝夕の通勤時間になると、駅から工場まで人波がとぎれることなく、駅のホームは混み合っていたなァ。
今の鹿瀬駅からは想像もつかない、にぎやかで活気のある風景じゃった。
おどろくのはそれだけではないぞ。
昭和電工は、鹿瀬工場で働く人々が楽しんだりくつろいだりできる、いろいろな施設を用意したのじゃ。
映画館では、毎日のように新しい映画が上映され、時には芸能人がコンサートも開いておった。
大きなデパートのようなお店もあって、東京にしかないような品物でも、何でも買うことができたそうな。
他にも、最新式のプールや水道をつくったり、立派な病院や幼稚園もあったんじゃと。
社員の人々がくらす長屋のいたる所で、子どもたちが遊び回り、紙芝居が始まろうものなら、大ぜいの子どもたちが集まってきたものじゃった。
他にも、阿賀野川の川遊び、長屋の祭り、スキーなど、楽しい笑顔がたくさんあったなあ。
日本人のくらしが豊かになって食べ物も十分になってくると、あれほど売れていた肥料が急に売れなくなった。
鹿瀬工場は毎月のように、赤字に苦しむようになったのじゃ。
工場は赤字じゃったが、昭和30年ころから日本は景気が良い時代が続いてなァ、白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機などの家電製品が飛ぶように売れたのじゃ。
これらの家電製品には、プラスチックなどの新素材が多く使われていてのォ、そのプラスチックは「アセトアルデヒド」というモノからつくられておった。
このアセトアルデヒド、実はカーバイドからつくり出すことができたのじゃ。
「肥料をつくり続けても、いずれ工場がつぶれてしまう……」と考えた会社は、カーバイドから肥料をつくるのをやめて、かわりにアセトアルデヒドをたくさんつくるようになったのじゃ。
しかし、このアセトアルデヒドをつくるときに、「有機水銀」というモノが生み出されてしまい、それが工場から阿賀野川へ流れ出ていたのじゃ。
ワシの、この阿賀野川のきれいな水は、有機水銀によごされてしまったのじゃ!
有機水銀というのはな、水中のプランクトンに取りこまれる。
するとそのプランクトンを水生昆虫などが食べ、その水生昆虫を川魚が食べるといったぐあいに、生き物の体の中でどんどん濃くなっていくのじゃ。
そして、有機水銀が大量にたまった川魚を、毎日のように食べていた多くの人々が、新潟水俣病にかかってしまった。
水俣病は人間の体の中に入った有機水銀が脳にたまって、手足の感覚がなくなったりしびれたりする、つらい病気でなあ。
そんな公害がこの阿賀野川でおきるとは、だれも思わなかったじゃろう。
新潟水俣病は、熊本県の水俣病、富山県のイタイイタイ病、三重県の四日市ぜんそくとならんで、日本の四大公害とよばれておる。
社会が豊かになる中で、人間の活動が海や川、空や土をよごして、健康に害をあたえる公害はとてもおそろしく、二度とくりかえしてほしくないなあ。
ところで、今の日本では、アセトアルデヒドは安全な方法でつくられているから安心じゃ。
それと、鹿瀬工場は、今は「新潟昭和」という名前の会社になって、洗面所やお風呂などの水を流すパイプなどをつくっておる。
工場の排水は、国の法律の2倍厳しい阿賀町の基準できれいにしてから、阿賀野川へ流しておるので心配ないぞ。
さらに、昭和電工では、新潟水俣病 をおこしたことを深く反省して、工場から出る排水をきれいにする施設を、見学してもらう取り組みも行っているのじゃ。
そうそう、ワシとしてはここを最も大きな声で言いたいのじゃが、今は阿賀野川をよごした有機水銀も取りのぞかれ、新潟県から「もう阿賀野川は大丈夫」という安全宣言が出されているぞ。
公害がおきてから、川魚を食べないよう言われていたのじゃが、この安全宣言をきっかけに、ふたたび阿賀野川の川魚を食べても良くなったのじゃ。
ようやくまた、昔のようなきれいな水を取りもどせて、わしは生まれ変わったのじゃよ。
今の阿賀町を、見てごらん。
豊かな森から流れ出るきれいな水が、阿賀野川を清流へもどしてくれた。
そうしたきれいな水で育てられた阿賀町のお米は、全国の有名なお米の中でもとくに美味しいとの評判で、東京のデパートでも販売され、飛行機の機内食にも選ばれているのじゃよ。
それと……お米と言えば、美味しいお酒も好評じゃな。
阿賀町の酒造会社は、このきれいな水と地元の酒米を使って、環境にやさしい酒づくりをしているんじゃが、とびきりおいしいお酒ができるのも、当然の話じゃなあ。
今の阿賀町には、きれいな自然や美味しい食べ物なら、自まんできるものがいっぱいあるのじゃよ。
最後に、ワシからのお願いなのじゃが…
春に咲く、色鮮やかな雪椿
清らかな水を生み出す、夏のブナ林
秋の紅葉や、漂う川霧
冬の雪原と、体温まる温泉
すてきな宝ものがたくさんある、このふるさとの阿賀町はもちろん、世界のどこでも二度と公害をおこさないよう、自然環境を大切にして、きれいな水や空気を守ってほしいのじゃ。
では、よろしくたのんだぞ。